わたしにとってのセラピーは歩くこと。と言い切りたい。
歩くことが欠かせない習慣になった今、そう確信している。
歩くと、世界が明るくなる。ほぼ、例外なくいつでも。
歩き始める以前のわたしはこうだった。
たとえばある湿度の高い朝。
目が覚めると体がずんと重い。日が差さない朝は機嫌が1目盛りくらい悪い。仏頂面でまずは、お茶のための湯を沸かす。
ケトルを見つめながら、寝る前ギリギリまで読んでいた小説の断片がふと浮かぶ。スマホで見てしまった痛ましいニュースも。そうだ、息子の病院の予約もしなきゃ!
todoリストと記憶が、がちゃがちゃとぶつかり合う。
そんなごちゃついた頭のまま、PCの前に座り、仕事を始めていた。きもちが晴れるのを待っている場合じゃない、ってかんじで。当然進みは悪く、気分も乗らない。でもやるしかない。ずいぶんこわい顔をしていただろうな。
でも、ある晴れた日。ふと、目をやった窓の外の光があまりにうつくしかった。今日はなんだかコンディションが悪いし、気分転換に15分だけ散歩してみようかな。PCを閉じ、カメラをつかみ、外に出てみた。近所をただ、ぐるぐると歩いてみた。
それが、ものすごくよかった。
15分のつもりが2時間になった。
頭が冴え渡り、幸福感が増した。クリアな視界に、うつくしい光が差した。
成功した瞑想のあとのようなきもちで、足取り軽く帰った。
結果、仕事に充てられる時間は2時間減った。でもその後の作業のスピードは5倍くらいだった記憶がある。ひらめきが次々と降りてきて、前向きなきもちでタスクをこなした。すごかった。
いったい、何が起こったんだ!歩いただけなのに。
その日から、1日のはじまりは試しにとにかく、歩いてみることにした。急いでいるときほど、歩く。不機嫌なときは、必ず。
装備も大切だとわかった。すぐ、出かけられるように「いつものスタイル」を制服みたいに決めた。服どうしよっかな、めんどくさいな、とか思う暇をじぶんに与えないのだ!
毎日、同じスタイルになった。ざぶっと洗った顔には日焼け止めのみ。いつものキャップにボサ髪を収め、いつものパンツにTシャツ。水筒とリップクリーム。iPhoneに有線イヤホン。以上!身支度にかかる時間は1分半というところ。寝ぼけていても「制服」だから迷いがない。
で、とにかく、外に出る。
どんな天気だろうと、歩く。
今朝も、歩いた。ちょっと心がざわっとしていた。タスクは多く、きもちが晴れない。でも歩けばよくなると知っている。あれこれ考えず、歩き始めた。
まずは音楽を聴いたりせず、耳を開いて歩くようにしている。世界の音をそのまま、聴きたいから。歩くうちに、静かな住宅街のさまざまな音が、両耳を揺らし始める。蝉たちが競うように大声で合唱している。タイヤがアスファルトを擦る「しゃっ」という音の強弱。そこにじぶんの立てる足音が響き合ってくる。小刻みに歩いてリズミカルにしてみると、ちょっと16ビートっぽい。
やがて世界にじぶんしかいないみたいな心持ちになってくる。顔に、ぬるい風があたる。いつもの川辺に出た。水面にいくつもの輪が生まれ、広がっていく。鳥が高い声で鳴いている。
きもちがいい。
気づけば、頭の中が静かになる。
しんと、わたしだけの世界に、なる。
水辺を歩いていると、書きたいことが急に頭の中に溢れてきた。これは、次のエッセイの原稿になりそう!こんな時は、すぐさまiPhoneのメモアプリを起動する。吹き出すようなアイディアが消えてしまう前に捕まえるのだ。有線イヤホンのマイクに向かって、思ってることを勢いよく吐き出す。タイプしているかのように、言葉を並べてみる。
言語化していなかった新鮮な感情が、流れるように口を突いて出てきた。ハウスダンスみたいなステップでリズミカルに歩き続けながら、メモアプリの口述筆記を続けていく。イヤホンのマイクを口元に寄せ、ブツブツ独り言を言いながら16ビートで歩いてるちょっとおもしろいひと。傍から見たらそんな感じのはず!
やがて、一通り言いたい(書きたい)ことを出し尽くした。メモを確認して驚く。もしこれを、どんよりとしたきもちのまま座って書いたとしたら。きっと2時間ぐらいかかっちゃったんじゃないだろうか。そのくらいのボリュームの下書きがたった15分で完成していた。
灼熱の空を蝉たちは大声で揺らし、季節外れのトンボが目前を舞う。彼らの羽を照らすひかりが、きれい。
撮りたい!
1枚、写真を撮る。
アスファルトに落ちる木漏れ日、川面に浮かぶ藻のようなもの。ランニングロードでひからびちゃってるみみずたち。目に映るすべてが、ひかる。夢中で写真を撮る。世界はうつくしい!大きな声で言いたい気分。
ひかりが見えたら、だいじょうぶ。
おかえり、わたしの感受性!
時計を確認すると家を出てから1時間半が経過していた。歩きながら音を聴き、風を浴び、ひかりを見つけ、独り言を続けたこの90分間。朝は、何も見えていなかった。でももう、今は、何もかもがうつくしい。住宅地が、川沿いが、わたしの書斎で、スタジオになった。
いや、実際はそんなすてきなものではない。きわめて怪しいサングラス姿でぼそぼそと独り言をつぶやき徘徊しているにんげんです。でも、最高にたのしいからよいのだ!
中川正子
写真家。人の営みを映す自然な表情、日々のひかり、そして静謐なランドスケープを得意とする。雑誌・広告・書籍など多様な媒体で発表を重ねてきた。2011年3月、東京より岡山へ拠点を移す。 主な仕事として、写真集『新世界』『IMMIGRANTS』『ダレオド』『Rippling』『AN ORDINARY DAY』、作家・桜木紫乃との共作による写真絵本『彼女たち』、京都・清水焼「TOKINOHA」のビジュアルワークなどがある。また執筆活動にも精力的で、2024年4月には初のエッセイ集『みずのした』を刊行。
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